三田式3型改1 JA2103 白鴎 (S44.5〜S59.9) / JA2120 (S56.6〜S60.1) |
|
生産国:日本国
設計者:宮原旭
初飛行:1966年
構造:鋼管羽布張り
全幅:16.0m
全高:1.3m
全長:8.00m
翼面積:15.9m 2
アスペクト比:16.1
空虚重量:300kg
最大離陸重量:450kg
超過禁止速度:180km/h
失速速度:62.5km/h 複座時
最小沈下率:0.75m/s @ 75km/h 複座時
最良滑空比:30.8 @ 85km/h 複座時
|
JA2103号機は、東海大学航空部2代目の複座練習機。それまでのH-23Bに変わり、多くの東海大生がこれに乗り育っていった。
松前総長より白いカモメを意味する「白鴎」(はくおう)と命名され、その名は当航空部機関紙の名にもなっている。また東海として初出場となった1969年全国大会の優勝機でもある。
もう一つの三田式JA2120号機は、昭和56年から工学院大学より長期間借用(実質払い下げ)した機体で、しばらくの間2機交代体制で訓練を行なっていた。
三田式は慶應義塾大学(別称三田)OBの資金援助を受け、軽飛行機開発で製造されたシリーズである(後に製造は太南工業に移管)。
この3型は、主翼に層流翼を採用してはいるものの凸凹の多い木製主翼で、胴体も決して抵抗が小さいわけでもなく、実際の滑空比はそれほどでもなかったらしい。
操縦面では、テールヘビー機である為、正確に二点接地をしなければバウンドをしたり、直進性が悪く直線滑空も一苦労、練習機なのにとても難しかったという。
3分割構造の主翼である事などから、機体の分解組み立ても同様に難しかったらしい。
そんな三田式3型に昭和60年にTCD(耐空性改善通報)が通達される。主翼強度の不足が発覚した為で、多くの大学で使用されていた三田式3型は引退せざるを得なくなった。
東海の2機も13にその役目を引き継ぎ、惜しまれつつも勇退。この機体の飛行停止により、日本製グライダーの時代は幕を下ろしたといっても過言ではなかろう。
|
|
シュバイツァー式SGS 1-26E JA2160 青雲 (S49.3〜S58.2) |
|
生産国:アメリカ合衆国
設計者:Ernest Schweizer
初飛行:1954年(1-26型)、1971年(E型)
構造:全金属製
全幅:40 ft(12.192m)
全高:7 ft 2 in(2.197m)
全長:21 ft 6 in(6.565m)
翼面積:160 ft 2(12.4m 2)
アスペクト比:10
空虚重量:445 lbs(202kg)
最大離陸重量:700 lbs(318kg)
超過禁止速度:114 mph(182km/h)
失速速度:28 mph(45km/h)
最小沈下率:2.6 fps(0.79m/s) @ 38 mph(61km/h)
最良滑空比:23 @ 48 mph(77km/h)
|
ソアリングを楽しむ・・・これがこの機体の目的である。
まさしくそんな機体でグライド性能はK8にも及ばないが、多くの東海大生が空を飛ぶことの楽しみをこれに乗り覚えた。
驚くべきは失速速度で28 mph!サーマリングには持って来いである。また操縦がしやすく、経験の少ない人でも乗りこなせる機体でもあった。
諸元を見ると良く分からない単位で書かれているのに気づいた人もいるかもしれない。それもそのはず、この機体はアメリカ製の機体なのである。
当然、JA2106「青雲」も計器はフィート、マイル計(ノットではないので注意)、独仏式に慣れている日本人にとって最初は厄介である。
1-26型はシュバイツァーの代表的機種で、多くの人が今もソアリングを楽しんでいる。本国では1-26クラスなるものも存在する。
E型はその最終形で、全金属製である。よく「羽布機の東海」と言われるが、今まで運用してきた1/3が金属機からして、「羽布と金属機の東海」がより正しい。
「羽布と金属機の東海」が真ならば、「プラスチック機の東海」は偽である。
そんな青雲もK8導入に伴い、昭和58年関宿に売却され、また一つ東海の歴史が移り変わった。以後東海はグライダーの本場ドイツ製のグライダーのみの運用となっていくのである。
|
|
ICA式IS-29D2 JA2239 鴻 (S53.10〜S54.9) / JA2264 雄飛 (S55.1〜S56.6) |
|
生産国:ルーマニア
設計者:Iosif Silimon
初飛行:1970年
構造:全金属製
全幅:15.0m
全高:1.68m
全長:7.38m
翼面積:10.4m 2
アスペクト比:21.6
空虚重量:235kg
最大離陸重量:360kg
超過禁止速度:225km/h
失速速度:68km/h
最小沈下率:0.58m/s @ 78km/h
最良滑空比:37 @ 95km/h
|
正式名称、インタープリンダラ・デ・コンストルクティー・アエロノウティテェ・ブラソブ(Intreprinderea de Construcţii Aeronautice Braşov)式IS-29D2は、悲劇の機体である。
IS-29D2は、ドラキュラで有名なルーマニアはトランシルヴァニア地方、ブラショブ県にあるICAによって製造された機種で、ICA製の機体は日本では他にも、複座のIS-28やその高性能モグラバージョンのIS-28M2が登録されている。
現在に至るまでIS-29D2は、当航空部所有機として唯一のT尾翼機であり、ショックアブソーバー付き格納式車輪を備え、尚且つフラップ付きの機体である。またL/Dも最も大きい。
全金属製。当時としては高性能であり、見た目もいかにもといったところ。またJA2239は同型機日本初導入である。
そのJA2239は松前総長より「鴻」と命名される。読みは“おおとり”、大きな水鳥または“ひしくい”という名の鳥をあらわし、大きい、強い、盛んという意味も持つ。
そういえば、我らが湘南新宿ラインで熊谷に行く途中に「鴻巣」があるが、そうか、おおとりの巣って言う意味だったんだね。市内を探索すればIS-29D2が眠っているかも。
部員に夢を与えてくれたIS-29D2も、操縦性はシビアで、スピン特性も悪かったらしい。そして不運な事に、JA2239は曳航索が草に引っ掛かった事による、離陸寸前のグランドループで廃機。
2機目のJA2264は進入中の失速により墜落、廃機。二回ともパイロットの命に別状がなかったのは不幸中の幸いである。
ともに総飛行時間が50時間にとどかずに、またフラップ等の有用性を実証する前にその使命を終えた。東海にとって昭和53年から56年の3年間は、あっという間に過ぎ去った。
他大学でも、IS-29D2をスピンによる墜落事故により失っている。今後の活躍が期待された同型機ではあるが、学生が扱うには決して優しくはない操縦性が災いし、日本では短命に終わった。
まさに悲劇の機体である。
|
|
萩原式H-23B-A2 JA2022 (S41.5〜S44.7) |
|
生産国:日本国
設計者:堀川勲
初飛行:年
構造:鋼管羽布張り
全幅:12.958m
全高:1.55m
全長:7.112m
翼面積:17.0m 2
アスペクト比:10
空虚重量:243kg
最大離陸重量:370kg
超過禁止速度:110km/h
失速速度:55km/h 複座時
最小沈下率:1.05m/s @ 60km/h 複座時
最良滑空比:17.05 @ 73.5km/h 複座時
|
1959年(昭和34年)に発足した当部は、当初回数は少ないながらも霧ヶ峰の飛行会に参加し、プライマリーに乗り訓練をしていた。その後、原田覚一郎教官を招き、霧ヶ峰や藤沢飛行場で自動車曳航やウインチ曳航による合宿を機体を借用し行なった。
部員が増え単独合宿が出来るように成り、東海1号ウインチの製作、藤沢飛行場閉鎖に伴う妻沼への訓練場所変更等の変遷をたどっていくなかで、自分達の機体で訓練したいという思いは日に日に高まっていった。
そしてついに慶應義塾大学より中古のH-23Bを購入に至ったのである。その資金を集める為部員は強制バイトをし、苦労は耐えなかったようだ。その分喜びも一入だったのは、想像に難くない。
ところが、せっかく手に入れたはいいものの整備が大変で、学生自身で治したのだが、原田教官も当惑する出来であったらしい。そんな機体ではあるが、当航空部の成長の原動力として多くの学生がこれを用い技量向上をはかった。
また東海大学航空部初のC章もこの機体で達成された。
H-23Bは荻原(はぎわら)滑空機製作所で開発された機体であり、当型機と、2本あった翼支柱を一本にし、エアブレーキの変更、翼幅の拡大等の変更が加えられたH-23Cは、他大学でも広く用いられた。
学連機も23Bであった。23Bは見てのとおり抵抗の大きい機体で、今のグライダーと比較すると性能差は歴然である。現代のグライダーの進化、50年の技術進歩には驚きを隠せない。
写真は、昭和44年7月に一回限り行なわれた静岡県御前崎海岸での合宿時のものである。砂浜でのグライダー訓練は海外では見られるが、日本では非常に珍しい。2枚目のハウストレーラーは自作で、東海ウインチ含め当時は学生達で何でも作ってしまった。
活気溢れる古き良き時代である。H-23Bはこの御前崎合宿の最後に、ウインチ曳航中の索切れ事故により廃機になってしまう。事故の2ヶ月前に導入された白鴎がその役目を引き継いだ。
|
|